昭和とカレー。
11/10(金)
前後するが、この日は昭和のくらし博物館へ。高野文子展。プーこそ平日行動。
下丸子は記憶では初めて…だったけれど、遠い昔、目蒲線に揺られきたやもしれない。便利とはいいがたいが雰囲気よく、決してわかりやすくも短くもない博物館への道のりがすでに高野色。
原画を拝みにきて、実際その宇宙的で理系っぽくアナログでグラフィカルでポップな絵に見入ったわけだが、博物館内に高野さんスタイリングの「昭和の子ども部屋」があり、そこが。
いつかの中島京子の小説ばりに、戦前の豊かな、ユーモアと工夫にあふれた暮らしを再現するユートピアだったのに強く心を動かされた。
とある家族が実際長く暮らした家だという。さもありなん。
あたたかい幽霊たちをみた思いである。子どもの走る音。台所のがちゃがちゃした感じ。縁側で日向ぼっこする猫。お出かけするときは白い襟のワンピース。お下がりと作り直し。モダンな上品さ。
それらを築き維持した人々から、戦争はすべてを奪った。いのち、食べ物、優しさ、真心、未来への夢、なにもかもをむごいかたちで(身売りされた少女らの記述には怒りで目の前が暗く手足冷たく…)
学芸員のかたもみな親切至極、取材にいらしていた婦人雑誌の関係者、お客さんら全員に共通するトーンがあまりに「そのまま」で、弱った身にはありがたかった。
ごく若いころ、傲慢にもシブサワでもテラヤマでもなんでもいい(乱暴) ある種の記号がつく展示に「年かさの、知識合戦ばっかのひと多すぎ。なんで? 文化的ヤングなかわい子ちゃんプリーズ!岡崎さんのまんがみたいな。はなればなれにのカリーナみたいな!」などといらついたりしたけれど、いまは華々しくないほうが確実に居心地よく感じる立場。てえのもあるが、
あのころよりはるかに人びとが「生活すること」「明日も生きること」に心も体も時間も削られてるのだ。
存在を目視できりゃ上等、精神的文化系貴族の絶対数が足りないなか途切れぬ訪問者に一筋の光を勝手に見出し、鼻の奥ツーン!が大きな要因だったような。
みなさん…この難局を…どう乗り越えたらいいか皆目わからないけれど、なんとか生きていきましょうぞ…(虫の息)
11/16(木)
代官山の古着屋勤務時代仲良くなった子育て中のお友だちと、オクシモロンへ。二子玉川のほうの。これまた平日休みの有効利用といえよう。
しかしニコタマ。いくたびズシーンというかペラペラというかどちら方面にもきつさが増している。
前々から馴染んじゃいねえが、もはや言葉も通じぬ域。当方がレゴとして参加できるのはベビーシッター役くらいかしら~。
この街を思い浮かべるひとはまず「裕福なファミリー」を、ことに<高そうなベビーカーと美人ママ>みたいなのを配置するだろうけれども、
タマタカの屋上で絵に描いたようなベビー&ヤングなママたちがお互い撮りあってキャッキャしており、
余所者が空気乱して申し訳ないと恐縮しつつ「あの~連絡通路はどっちでしょうか~」って馬鹿面さげて尋ねたところ、
まさかの、いや、なるほどなのか「私たちも今日初めて来たのでわかりませ~ん!」というコントみたいなお答えをいただいてしまい…なんとなく現実めいたものを感じながら(そうよね、お惣菜買いにくる層に記念写真は不要よね…)友人と合流。
1年ちょいぶりの逢瀬なのでそのへんは難なく、息子氏の暴れっぷりやら生活や体調の話などをきき、こちらは身の上トークをぶちまけるなどなど。
彼女の育った環境が作り出したらしい「現状を淡々と受けとめ、良くも悪くも騒がない」穏やかさとカレーに癒やされた私だった。
(なんせ文句や呪いや己が悲運を無差別に大声で発信できるSNSにおいて、彼女はまじ1ミリも!愚痴をいわず生活の端をみせないのだ。
けっこうなフォロワー数を誇りながら、既婚or未婚、年齢、住んでいる場所、子どもがいるとかいないとか、食べたもの、なにひとつつまびらかにしない。ヒントも与えてないから多くのひとは彼女が女性であることくらいしか知らないはず。なのに~ひとを集めちゃう~かっこよさ~)
寸志のお返しのお返しのお返し的地獄にはまってないひとは顔色もよく、アレクサ・チャンとかズーイー好きを公言するちょうどいい感じがたまらなかった。
なもんで、安心してシンデレラの魔法がとける時間までおしゃべりしたしだい。
(余談だがオクシモロン。ウイークデーの開店前すでに満席で行列。な事態を必ずしも肯定はできないが、ちゃんとおいしくてポイントポイント知恵をこらし礼儀もちゃんとしてるから絶対悪くいえない。どころか繁盛するのわかる~って感じなんだよね、仕事できんな運営!)
自由(暇)を理由に、ひとりで界隈を散策しようかナと一瞬考えるも、解散後はマルニみてそそくさ電車に乗っちゃったけども…。



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